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「経済思想」期末レポート2011-2

理想主義的ユートピアのための契約

3年 文学部人文科学科 犬飼

 


 

0. はじめに

 

 本稿では、ロールズの思想、特に『正義論』で示された契約論が、グローバル化しつつあり国際的な規範が求められる現代において、どのような意義をもつのかについて論じる。第1節から第4節では、ホッブズの『リヴァイアサン』、ルソーの『社会契約論』、ロールズの『正義論』、ロールズの『万民の法』を順に見ていき、契約論を世界規模のものへとどのように拡大できるかについてまとめる。第5節と第6節では、ロールズの思想とカントの思想との関連を探り、ロールズの契約論がどのような弱点を抱えているのかを明らかにする。そして、第7章では、『万民の法』でなされたロールズ流の契約論の拡大を批判的に捉え、『正義論』における契約論の敷衍こそが、世界規模の契約を想定するときにより適切な規範になるということを主張する。

 

 

1. 私的な利益のための契約

 

 ホッブズの著作『リヴァイアサン』に記される契約論は以下のようなものである。人々が利益を調整するための契約を結ぶ前の「自然状態」においては、各人は自分の利益を得ようとして、挙句同じく利益を得ようとする他者と敵同士になって暴力による解決がなされることになる。しかし、両者とも望んでもいない「各人の各人に対する戦争」が勃発するのはなんとか回避したいと考えるだろう。よっぽど力の強い者でさえ共謀によって命を落とすかもしれないので、この事態を好ましく思わない。彼らは互いの利益のためにそれを回避する方法を理性によって考える結果、「あなたが自分自身に対して、してもらいたくないことを、他人に対してしてはならない」­­­1というようにあらわすことができる「自然法」を遵守するのがよいことに気がつく。自然法は、自分自身の生命維持のためであれば何をしても許される権利である「自然権」を制限するかたちで互いの私的利益を増大させるようなものである。しかし、各人が強制力なしにこれに従事するということは考えにくい。裏切って自然法を守っている者の利益をごっそり奪っていく者があらわれることは容易に想像がつく2。そこで、自然法の遵守を強制させることができるくらいのとてつもなく大きな力を、契約を結ぶことによってあるものにもたせる。「リヴァイアサン」と例えられるこの絶対的な権力者により、各人が殺しあいをする戦争状態から離れて生活することができる「社会状態」がもたらされる。

 この契約論では、各人がそれぞれの利益を追求するときに社会全体として矛盾が生じる「社会的ジレンマ」と呼ばれる状況に陥っていることを前提とする。このジレンマはそれに陥っているすべての者にとって望ましくなく、これの解決はすべての者にとって望ましい。そのため、契約当事者たちは、このような契約が試みられるなら合意するし、その契約が過去に存在したと仮定した時さえ、積極的にそのことを認めるだろう。

 

 

2. 共同体の利益のための契約

 

 それに対し、ルソーの契約論は必ずしも上記のような私的な利益の増大に限定されたものではない。ルソーは『社会契約論』で、共同体の構成員にとって共通の利益を追求する意志である「一般意志」を、個々人の私的な利益を追求する意志(特殊意志)の積み重なりである「全体意志」と区別する。それを踏まえ、「意志が一般的であるためには、意志が全員一致のものであることは、つねに必ずしも必要ではない」3と述べる。しかし、彼は「多数決の法則は……少なくとも一度だけは、全員一致があったことを前提とするものである」4とも考えている。この契約論では、共同体としての決定に対して、常に全員が納得することまでは(実際不可能なので)求めないが、そのかわり、基本的な制度に対する合意は全員一致によらなければならないとする。ルソーはここで、社会におけるある種の「望ましさ」について訴えかけている。このような(一般意志についての)議論における契約は、個々人の利益を増進するための(特殊意志についての)議論であるホッブズのいうような契約とは性格が違う。ホッブズのいう「各人の各人に対する戦争」がないような社会状態それ自体は、一般意志にかなったものかどうかは問われない。ルソーが提案するのは、そのような社会状態から、他の理想的な社会状態への移行である。

 同書にある「人間は体力や、精神については不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になる」5という記述に、ルソーの提案する契約の本質があらわれている。公的な利益を追求する一般意志によって、自然状態ではほとんど平等であったはずだが社会状態のせいで不平等にあるような我々に6、共同体にとってあるべき平等7を取り戻すような契約がもたらされるのだ。この契約は個々人の利益の観点からすると必ずしも望ましいものだとはいえないため、ホッブズ契約の議論と異なり、このような契約が今後確実になされるだろうとか、過去に存在しただろうと仮定することは困難である。なぜなら、この契約によって確実に利益が減少する社会的に有利な者が、平等を促すような契約に合意するとは考えがたいからだ。しかし、そのような者の利益というのはそもそも社会的な不平等によりうみだされたものであることに注意しなければならない。この契約論は、社会状態に起因する不平等の問題を、「あるべき社会」を想定することによって解決しようとするものである。

 

 

3.国家の利益のための契約

 

 しかし、上述の議論には問題がある。小規模の共同体において基本的な制度に対する全員一致の合意が可能であったとしても、内部で利害対立が起こってしまうような大規模な共同体や、複数の共同体からなる国家の一般意志を導くことは難しいだろう。また、社会的に有利な者は協力しようとしないのだから、ルソーのいうような契約について彼らの合意を得ることはほとんど不可能だろう。ロールズは『正義論』ににおいて、「原初状態」と「無知のヴェール」という概念装置を用いることにより、その解決の糸口を見いだそうとする。

 まず、ロールズは契約する前の状態として「原初状態」を仮定する。この状態は、「ひとつの正義の構想にたどり着くべく特徴づけられた、純粋に仮説的な状況」8だと定義されている。これは、契約する前の状態だとされる従来の「自然状態」に対応するものである。この状況の本質的特徴のひとつとして「無知のヴェール」があるという。これは各人を以下の状態に置くものである。

 

社会における自分の境遇、階級上の地位や社会的身分について知らないばかりではなく、もって生まれた資産や能力、知性、体力その他の分配・分布においてどれほどの運・不運をこうむっているかについても知っていない……各人の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向も知らない9

             

このヴェールに覆われることよって、各人は、自分が本来生活している社会において、何が自分の利益に直結するのかがわからなくなる。そこにある者は情報がまったく足りないため、自分の利益になるような社会の基本的ルールを採択する契約であれば合意し、そうでなければ合意しない、というような特殊意志でもって行動するということができない。彼が情報もほとんどなしにある偏ったルールを決めるような契約に合意してみても、ヴェールをとってみたら実はそのルールによってかなりの損を被る立場にいるかもしれないのだ10。それを考慮し、彼らはむしろ、ヴェールをとったときにすべての人にとって暮らしやすい公正なルールが採択されていることを望ましく思う。原初状態において、無知のヴェールに覆われた契約当事者たちは、このような考えのもと、全員一致によって合意し一般意志に到達することができる。契約に合意がもたらされたら、仮想的な場である原初状態から私たちが現実に生活している社会状態に移行し、その契約に従ってルールを適用する。以上のような契約を想定することによって、共同体内や諸共同体の間の利害の対立や、もともと優位な社会的状態にあって合意をしようとしない者の問題を解決しようとする。

 では、正義にかなった契約の内容はどのようなものになるのだろうか。彼らは原初状態において、他者を邪魔しない限りでの最大限の自由、また、機会の平等は保証されて然るべきだと考える。さらに、道徳的人格をもつとされる原初状態での理性的な契約当事者たちは、他者の(長期的に見た)利益を減少させてまで自分の利益を増大させることは避けるべきだが、他者の利益を増大させるのであれば、成果をあげた分だけ報酬は認められてよいとする。このような議論により「正義の二原理」という基本的なルールを導き出すことができる。それは以下のものである。

 

第一原理 各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な制度枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な枠組みといっても他の人びとの諸自由の同様な枠組みと両立可能なものでなければならない。

第二原理 社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない——(a)そうした不平等が各人の利益になると無理なく予期しうること、かつ(b)全員に開かれている地位や職務に付帯すること11

 

ロールズは、最も不遇な人びとの予期を高めるような制度を採用すれば、あらゆる人びとの予期を高めることになると考え、第二原理をより簡潔に示すことができるという論述のもと、以下のものに変更する12

 

社会的・経済的な不平等は次の二条件を充たすように編成されなければならない—— (a)そうした不平等が最も不遇な人びとの期待便益を最大に高めること、かつ(b)公正な機会の均等という条件のもとで全員に開かれている職務や地位に付随すること13

 

原初状態において、このような基本的ルールを採択するという契約に合意することにより、利害関係が調整され、国民(国家における市民)たちの一般意志が生成されるのである。

 

 

4.現実主義的ユートピアのための契約

 

 ロールズは『万民の法』において、リベラルな国家に属する人々による合意は、いかにしてあらゆる国の人々の間での合意に押し広げられるか、について論じている。ここでは、原初状態における仮想的な契約が想定され、それに合意した民衆からなるようなリベラルな国家が(いくつか)あるという前提が置かれる。そして、「道理に適った(道理をわきまえた)」14リベラルな諸国の民衆は、世界規模での合意を目標として「国際法と国際慣習の諸原理や諸規範に適用される、正しさと正義にかんするある特定の政治的構想」15である「万民の法」を創ろうとする。しかし、リベラルな諸国の民衆はあらゆる人々に参加を認めるわけではない。この議論の焦点は、ロールズが理想とするような「リベラルな諸国の民衆」が、彼からすれば必ずしも理想的とはいえない「リベラルではない諸国の民衆」をどのくらい許容し、拡張された合意への参加を承認するか、にあるからだ。彼は、「良識ある」諸国の民衆ならば、リベラルでなくともそれを認めることができるという。それは、「『良識ある』は『道理に適う』に較べると弱い(つまり、『道理に適う』に較べ、より狭い範囲しかカバーしない)ものだが、それでもやはり、同種の規範的観念である」16ためである。

 良識ある諸国の民衆といえるかは、「良識ある諮問階層制」をもつ「良識ある階層社会」に属する民衆であるかに大きく依存している。政治的決定において、「良識ある諮問階層制」は以下のことを認める。

 

諸々の結社、組合、階層(身分)の構成員たる各人は、諮問手続きのいずれかの時点で(集団の代表を選ぶ段階であることも多い)、政治上の反対意見を表明する権利を有しており、同時に政府には、集団の反対意見を真摯に受けとめ、誠意ある回答を行う義務がある17

 

政治的決定は、民主的ではないような、宗教的・哲学的価値観に基づいてなされるものの、個々人の意見は、ある適度は尊重されている。このような制度をもち、以下の二つの基準を満たす社会は「良識ある階層社会」であるといえる。

                           

第一に、この社会は、侵略的な目的を抱くことなく、外交や貿易、その他の平和的手段によって、自らの正統な諸目標を達成しなければならない

 

第二の基準は三つの部分からなる

(a)……良識ある階層社会民衆の法システムは、正義にかんする共通善的観念にしたがい、いまでは人々が人権と呼ぶようになったものを、その国の民衆の全構成員に保障する……

(b)……良識ある民衆の法システムは、その国の領域内にいる全ての人格に対し、(人権とは区別される)正真正銘の道徳的権利義務を課すものでなければならない……

(c)……法システムを実際に執行する裁判官やその他の官僚たちが誠心誠意、かつ、道理に反しないやり方で「法は本当に正義の共通善的観念に導かれている」と信じている必要がある……18

 

このような基準を満たす社会に属する者は「良識ある諸国の民衆」であると認められ、また、リベラルな諸国の民衆は、こうした人々による社会に対してであるならば「寛容」を示すことができると考えられている。

 リベラルな諸国の民衆は、原初状態の仮定を一度経験しているのに対し、上述したような良識ある諸国の民衆は、原初状態を想定した契約を用いていない社会制度を採用する。ここでロールズは、それぞれの国々の民衆に合意をもたらすため、前者にとっては二度目、後者にとっては一度目の原初状態を想定する。彼はあくまで、リベラルな国々があり、リベラルではない国々もある、という状況を前提としていたために、それらを調停するような新たな原初状態が必要になるとしたのであろう。この原初状態においてもたらされる万民の法の諸原理は以下のものであると考えられる。

 

1 各国民衆は自由かつ独立であり、その自由と独立は、他国の民衆からも尊重されな     ければならない

2 各国民衆は条約や協定を遵守しなければならない

3 各国民衆は平等であり、拘束力を有する取り決めの当事者となる

4 各国民衆は不干渉の義務を遵守しなければならない

5 各国民衆は自衛権を有しているが、自衛以外の理由のために戦争を開始するいかな     る権利も有するものではない

6 各国民衆は諸々の人権を尊重しなければならない

7 各国民衆は戦争の遂行方法にかんして、一定の制限事項を遵守しなければならない

8 各国民衆は、正義に適った、ないしは良識ある政治・社会体制を営むことができな     いほどの、不利な条件の下に暮らす他国の民衆に対し、援助の手を差し伸べる義務           を負う19

 

 なお、ここでいう「人権」とは、「西洋の人々」といった、ある特定の人々しか理解できないような偏ったものではない。

 

万民の法における人権とは、奴隷状態や隷属からの自由、良心の自由(しかし、これは必ずしも、良心の平等な自由ではないのだが)、大量殺戮やジェノサイドからの民族集団の安全保障といった、特別な種類の差し迫った権利を表している。こうしたたぐいの権利を侵害すれば、道理に適ったリベラルな諸国の民衆からも、良識ある階層社会の民衆からも、等しく糾弾されることになるのである20

 

このような記述からわかるように、ここでの「人権」という言葉は、「道理に適った」あるいは「良識ある」諸国の民衆であれば容易く理解することのできるものである。

 

 

5.ロールズの契約論におけるカントとの関連性

 

 ロールズのいう原初状態と無知のヴェールを使用した仮想的な契約は、原初状態において、無知のヴェールに覆われた(カントのいうような)理性的存在者が基本的制度を決定しようとするならば、望ましい社会のルールのもととなる「正義の2原理」を導くことができるということを説明したものであると捉えられる。実際、この理論はカントの倫理学に負うところが大きい。

 まず、カントの倫理学を見てみよう。カントは、すべての人間は理性をもっており、その理性に従うことによって、道徳法則を見つけ出すことができるとする。(どんな悪人でも、悪いことをするときには、少なくとも「理性」の働きによって「悪いことをしているのだ」と感じることができるだろう。)その道徳法則は、「このときは、こうすべき」という、その場の利益に基づいた主観的なものでなく、「(いつでも)こうすべき」というように断言することができる客観的なものであるとされ、前者のように命題を規定するような方法は「仮言命法」、後者のようなものは「定言命法」と呼ばれる。そして、カントは、行為によりもたらされる結果を見ながらそのつど規定される仮言命法は普遍的な法則とはならないと考える。いくら意志が自由であったとしても、そのような意志によって結果まで自由になるとは限らないからだ。(このような意志であれば結果は必ずこうなる、ということはあり得ない。)その一方、人間の自由な意志のみの世界である悟性の世界(叡智界)の中でなら、感性の世界(現象界)での結果を気にしなくてよいので、定言命法のような普遍的法則を想定することができるとカントは考えた。

 ロールズ自身、正義の二原理をうみだす構想である「公正としての正義」は、カント的に解釈できるとしている21。原初状態における契約当事者たちは、無知のヴェールに覆われることで、「自由かつ平等な理性的存在者としての自然本性」22をあらわし、客観的・普遍的立場から、定言命法を適用したのと同様に行為するのである。

 

 

6.ロールズの契約論の欠点

 

 ロールズの契約論が抱える欠点は二つあると考えられる。一つは、第5節で言及したように、カントがいうような定言命法は「結果を考慮しない」ということである。ルソーの場合は、共同体の構成員の意見の一致によって契約がなされることを想定していたが、その際、構成員はもちろん契約後にどうなるかについて考慮する。しかし、カントの考えでは、諸個人がそれぞれ自分の理性に照らし合わせ、普遍的立法になり得ると判断することで合意に達したならば、その結果どうなろうとも考慮されない。また、原初状態における無知のヴェールに覆われた理性的な諸個人による合意についてもカントの場合と同じことについて批判されるかもしれない。しかし、ロールズはそのような批判を退ける説明をすることでカントの倫理学の限界を超えようとした。

 ロールズは、結果を考慮するために、「反照的均衡によるしっかりした判断」という概念を持ち出す。「しっかりした判断」とは、「私たちの道徳的能力が歪められることなく提示される見通しが最も高い場合の判断」のことである。私たちの道徳的な直観に基づく判断が、先験的な原理とこれによりもたらされる結果と異なる場合、そのつど「反照」し、議論の仕方を変えて両者を修正することを、整合性がとれて「均衡」するまで繰り返して、しっかりした判断が達成されなければならない23。このように、ロールズは、カントの倫理学が抱える結果の問題をなんとか解決しようとしたのだ。そのため、ロールズの理論において欠点だと思われる一つめの点は実は欠点ではないといえる。

 だが、他のことについての欠点は存在する。それは、ロールズの議論のなかで、最終的に意見が一致し合意に達しているからといって、それはカント的なバラバラな個々人による形式的合意であって、当事者たちが結合するようなコミュニケーションをともなった合意ではなく社会的な正当性をもたない、というものである。ロールズはこのような「方法」を基礎として論を展開しているので、これは決定的な弱点だと思われる。

 

 

7.理想主義的ユートピアのための契約

 

 第6節で述べたような欠点を抱える限り、リベラリズムの考え方は、絶対的に正しい理論であるというよりは、正しさのあり方のひとつであるとされるべきだろう。この理論は、あくまで原子論的(カント的)な立場から、限定された意味での一般意志を導こうとする、一種の正しさを示す試みなのだ。この契約論は、市民の一般意志を導くための討議において積極的に参照されるべきガイドラインとなるものである。そのため、諸共同体の社会状態において成し遂げられようとしている一般意志をないがしろにしてまで「正義」を押し通すというのはお門違いである。

 このように考えてみると、第4節で説明されたロールズの『万民の法』においての考え方に対しての反論が生じてくる。なぜ彼は「リベラルな国がある」という想定をするのだろうか。完全にリベラルな国というのはありえない。国の基本的制度は、無知のヴェールに覆われた理性的存在者によってではなく、ここにいる私たち市民により決定されるものである。そのため、原初状態においては道理に適ったリベラルな国が想定できたとしても、あくまでこれは実際になされた契約ではないために、リベラルな国というのは完全なかたちで実現されることはない。また、先ほど論じたように、ロールズの理論においては、限定された一般意志しか達成されないので、リベラルな国は実現されるべきだと断言する根拠についても不足しているように思われる。ロールズの主張は、十分考慮されるべきものだが、まったくそのまま採用することを強要することはできないのだ。そのため、一度、無知のヴェールに覆われた諸個人が原初状態で合意し一般意志を達成したと考え、それを自明とした上で実際に存在する、道理に適ったリベラルな諸国にある民衆は、二度目の原初状態において良識ある諸国の民衆と合意に至ることによってあるべき万民の法を導くという過程をたどることは、あまりに現実主義的でない。

 ロールズはおそらく、道理に適ったリベラルな諸国をアメリカや西欧諸国、(「カザニスタン」という架空の国を例に出していることだし)良識ある諸国をイスラーム諸国にあてはめて考えているだろうが、リベラルな諸国が用いる「寛容」という言葉からもわかる通り、やはりイスラーム世界に対してどう接するかという「西洋」の消極的な国際秩序の構想しかもっておらず、その意味でこのようなモデルにより導かれる法を「万民の法」というのはふさわしくない。

 ロールズが論じたこのような現実主義的ユートピアは、現実からは程遠い議論になってしまっている。ロールズの(特に『正義論』における)契約論はルソーのものと同じく理想主義的なものであった。個々人が切り離され、それぞれの善をなんとかやりくりして対立乗り越えるような討議を避けた原子論的方法を採用していることから、そもそも現実主義的ユートピアを語ることは不可能である。では、「理想主義的ユートピア」はどのように説明されるのであろうか。

 理想主義的ユートピアは、ごく単純なかたちであらわされる。つまり、地球規模の契約を想定する際、『万民の法』のように二段階の原初状態を設定するのではなく、『正義論』のような一回限りの原初状態によって基本的制度を決定することで説明されるのである。特に目新しい議論ではないが、これが決して達成されることのない理想主義的なユートピアとして支持される点はいくつかある。ひとつは、正義の理論は限定された意味でしか一般意志を達成できない、ということを踏まえつつも、討議の場面でその公正さが示されることには十分意義があるということである。複数の共同体の諸々の善によって話し合いでは決着がつけられなくなりそうなときに、理想主義的ユートピアを示すことによって、原初状態において判断するとこのようになるというある種の中立的な意見が出てきて、滞っていた話し合いをまだましな状態にすることができるかもしれない。また、方法論的限界を見極めた理想主義的な理論を参照することは、断定的な現実主義的ユートピアの主張とは異なり、恩着せがましくないので、共同体間のコミュニケーションや承認の作業を断絶することなしに、討議を継続できるだろう。これらの考えから理想主義的ユートピアは国際秩序を言及するにあたって、また平和を達成するにあたって、ひとつの有用な基準となるだろうと考える。

 

*1『リヴァイアサン』第1分冊, p. 254.

*2ここまでの議論はゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」により説明できる。それについては、『新しい社会学のあゆみ』などを参照されたい。

*3『社会契約論』, p. 44.

*4同上, p. 28.

*5同上, p. 41.

*6「自然状態においては不平等はほとんど感じられない」(『人間不平等起源論』, p. 83.)「不平等は自然状態においてはほとんど無であるから、不平等は、われわれの能力の発展と人類の進歩によって、その力をもつようになり、また増大してきたのであり」(同書, p. 130.

*7全員一致によりもたらされた契約に裏づけられた、共同体にとってあるべき基本的な制度からは、不平等は(ほんの少ししか)うまれない。

*8『正義論』, p. 18.

*9同上, p. 18.

*10この記述はゲーム理論でいうマキシミン・ルールによる回避だととれるかもしれないが、同書のpp. 204-217によるとこのような考え方は「発見のための概念装置」でしかないとされている。

*11同上, p. 84.

*12同書のpp. 102-114に詳しい記述がある。

*13同上, p. 114.同書のpp. 402-404にある二原理はこの議論との関連がないため割愛する。

*14「道理をわきまえた市民たちは、平等な者たちのあいだでの社会的協働の公正な条件を自ら進んで提供するということと、諸々の判断の重荷を認めるということによって、特徴づけられることとなる」(『万民の法』, p. 127

*15『万民の法』, p. 3.

*16同上, p. 96.

*17同上, p. 104.

*18同上, pp. 93-96.

*19同上, pp. 49-50.

*20同上, p. 114.

*21同上, pp. 338-347.

*22同上, p. 340.

*23「背景理論」も含めたより詳しい議論については、『ロールズ——正義の原理』のpp. 180-196を参照されたい。

 

 

 

 

参考文献

 

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